デリヘルミリオネア日記

デリヘルミリオネアHIRO(牧野ヒロ)詳しいプロフィール

私、牧野ヒロは1981年に千葉県松戸市で生まれました。

それからどんな生活をして育ってきたのか
についてこちらで包み隠さず公開したいと思います。

■中流家庭 貧しい思いは一切しなかったが。。

生きてからこれまで
特に貧しいと思う経験をせずに育ってきました。

逆に思春期にロックミュージックや文学に
傾倒するようになって
貧しさへ憧れるというなんとも罰当たりな考えを持つようになります。

そのせいか大学時代は、
家賃25,000円の風呂なし・ぼろアパートに
1人暮らししていました。
風呂は主に大学のシャワーを使用していました。

ちなみに僕は、ホームレスに憧れているところがあります。
お金という価値観に縛られずに生きる。

本人たちはそうしたいと思ってしていない人がほとんどだと思いますが、
勝手ながら憧れを持っています。

■小学中学時代 頭は良かったが運動は出来なかった

勉強の飲み込みは比較的早く授業が退屈でした。

そのかわり運動はずっとだめで
マラソン大会などは最下位から数えて何位、
というような結果でした。

しかし、中学に入り漫画「スラムダンク」の影響で
バスケットボールをやるようになり
みるみるうちに身体能力が上がりました。

バスケではスタメンになり
マラソン大会では10位以内に入る等成長しました。

1つのことに打ち込んで成長し結果を出す
という価値観が生まれたのは
この経験が初めてかなと思います。

■中学高校時代 タバコ、ピアス、喧嘩、金髪

漫画「湘南純愛組」の影響で不良に憧れていました。
煙草からはじまり中2でピアスを空けたときは
朝まで無言説教という無口な親父ならではの
説教タイムがあったことをいまでも覚えています。

親父からのプレッシャーもなんのその
不良グループとつるむようになり
町のゲームセンターのトイレで
ついに他校生との喧嘩をします。

結果惨敗。
そして親にめちゃくちゃ迷惑かけました。
すみません。。

それでも頭はまあまあ良く界隈で2番目くらいに
頭のいい私立高校に入学します。
そこでも髪の毛を金髪に染めたりとやんちゃでした。

特にグレる要素なんてなにもなかったのに
なんでそんなことをしていたのか今思うと、
すべて自分に負けたと思われたくない
という気持ちだったんじゃないかなと思います。

煙草を吸う度胸がない、
ピアスをあける度胸がない、
喧嘩をする度胸がない、
金髪にする度胸がない、
勉強をおざなりにする、
すべて他人からそう思われるのが嫌だった
という負けず嫌いな性格が根底にある気がします。

■中学高校時代 初めての成功体験

母親はピアノの先生、
父親はドラマー&オーディオマニアと
音楽に囲まれて育ちました。

中学生の時に父親に呼ばれて
おもしろいビデオがあるから
一緒にみようと誘われ
ミスチルとかスピッツをきいていた当時に
見せられたのが「ウッドストック」でした。

鳴っている音楽には全く興味わきませんでしたが
おっぱい丸出しで踊るヒッピー姉ちゃんには
ビビっときました。w

そんな父親の影響があったかどうかは
わかりませんが高校になって
ベースを始めることになります。

さらに、当時インディーズロックが流行りだし
「ハイスタンダード」に出会います。

僕はその頃エイフェックスツイン、
スクエアプッシャー、アンダーワールド、
プロディジーなどに出会っていて
そこまでメロコアには興味なかったのですが
演奏してみるとこれが面白かったのです。

めちゃくちゃにはまって
バンド人生がここでスタートします。

柏ALIVEというインディー界では
若干有名な千葉のライブハウスで
ライブをやるようになります。

友達をがんがん誘って集客には困りませんでした。
3年になるころには校内で一番人気のバンドになり、
文化祭では1枠しか出演権利のない
体育館の大舞台で演奏することができました。

この経験は僕に自信を与えました。
好きなことを続けていただけなのに
周りから求められ、認められる存在に
なれるということ。

また、多くの人の前で披露するという経験は
なかなかできるものではないので良い経験でした。

人前で話すとき緊張はしますが
頭が真っ白になるというようなことはないのは
バンド経験があるからかもしれません。

■勉強の成績はがた落ち 目指す方向を定める

ただ勉強の成績は悪くなる一方でした。
このころ既に学校の勉強が
社会の役に立たないことがわかっていました。

学歴社会も崩壊するってこともささやかれていたし
(実際はそんなことはないことは現在痛感しますがw)
大学は意味のある4年間にしたい
という思いが強くなっていました。

また、クリエイティブなことに興味があったので
美術大学を志望することになります。

特に音楽と映像とインタラクティブ性という
クリエイティブの集合体である
ゲームの業界に行きたいと
ひそかに思うようになり
就職先にゲーム業界のあった
武蔵野美術大学デザイン情報学科に入学しました。

実際にはゲーム系の勉強は
一切やらないのですが
美術大学の中では名のある大学に合格できました。

ちなみに実技試験もあるのですが
ほとんど学科試験で
受かったようなものだと思います。

というのも予備校で学科の模擬試験があるのですが
内容が学校でやっていることの数倍簡単で
全く勉強していないのに予備校内で
1位を取っていたりしたからです。

ある程度絵はうまくなりましたが
まわりほどはうまくなかったと思います。

この経験から一番を目指さなくても
自分の特徴とやりたいことと求められていることを
マッチさせることが大事なんだと
本能的に感じるようになります。

■大学時代 クリエイティブとビジネスについて

大学ではバンド、学業、バイト、VJ、
展覧会、PV作成、CG作成、ショートムービー制作
などなど目の前に転がっていた
面白そうなものすべてに手を出しました。

特に印象深いのはクラブVJをやっていたとき
ラッキィ池田さんに出会い
彼のPVを仕事として引き受けたことです。

ラッキィ池田さんにとっては
学生で撮影も編集もできて
グラフィカルなこともできる存在が
予算的にもちょうど良かったのだと思います。

仲の良かった3人でチームになって
学校の課題と同時に徹夜して制作をしました。

結果ラッキィ池田が特攻服を着た
ストーリー仕立てのシュールなPVが出来、
クライアントも満足したようでした。

自分の創るものがお金になるという経験は
非常に有意義でした。

特に中学時代の友人がギャル男になっていて
そこから派生した仕事が一番お金を生みました。

僕は自分の中でこの事象を「橋渡し」
と定義していました。

美大生は作品を創れるが金にできない。
ギャル男は作品を創れないが
集客してイベントを開催して金を作れる。

具体的にはイベサーと呼ばれる
ちゃらい(すみませんw)サークルは
定期的にクラブでイベントを開催します。

これは一番大きいもので
3000人以上集客するものもあり
1晩で100万を超える利益を
生み出したりしていました。

サークルの幹部はその利益で
沖縄旅行にいったりと豪遊できるほどでした。

その活動資金の中からイベント中に使う
映像制作にももちろん予算が割かれます。

そこで僕の出番というわけです。

一週間拘束で30万なんていう
学生からしたら破格のバイトでした。

むしろもうちょい本格的にやれば
事業化できたんじゃないかと思います。

■バンド時代 無謀ではなく計算

そんな感じでおいしい仕事もやりつつ
クラブで定期的にお金をもらいながら
VJしていると今度はまたまたイベサーつながりで
ファッション雑誌に特集されることになりました。

→BOYS RUSH

ただこの頃、VJや映像を仕事にしていくことよりも
自分が1番興奮できたバンドで
一旗あげてやろうと思うようになりました。

周りからは無謀と思われていましたが
とても打算的に考えた結果でした。

バンドを仕事にすることを
タレント業と割り切っていた
→若いうちにしか挑戦することができない

人気を得ることができれば一気に稼ぐことができる
→ローリスクハイリターン(金銭的に)

一旦有名になれば他のクリエイティブに移行できる
→INUの町田康が小説書いたり、
電気グルーブがゲーム創ったりという事例

そんなわけで僕は音楽活動を
就職活動と思ってやりはじめました。

音楽をつくり演奏することでお金を稼ぐ。
ただ30歳になっても貧しいバンドマン生活は
格好悪いなと思っていました。

それに各種オーディションでは
25歳までという制限があったため
25歳まで、つまり3年間で結果が出せなかったら
才能がないとしてあきらめよう
という気持ちで始めました。

デモ音源作成、小さなライブハウスへの出演、
知り合ったバンドとの共同イベント、
オーディションへの応募、小さな事務所への所属
などなどできることから少しずつ始めていきました。

はじめのうちは観客を数人しか呼べず
ライブハウスに払うノルマを達成できなかったため
自腹を切って出演していました。

それでもライブを続けていれば
少しずつ増えるだろうと頑張っていたのですが
一向に増えませんでした。

ライブでの反応の薄さというものは
計り知れない情けなさがあります。

場違い、勘違い、ナルシストなどなど、
ステージ上でものすごい葛藤がありました。

あるときこれではだめだと
ライブハウスで回数を重ねて集客する
という方法自体を疑うようにしました。

そして、その方法論はライブハウスが
盛り上がっていた頃の古い慣習だと気づいたのです。

そこで目をつけたのがmixiです。

mixiを使って自分の音楽に興味のありそうな人を
検索してライブに誘うという手法に切り替えたところ
最終的にはワンマンライブでチケットが
ソールドアウトするほどに集客できました。

具体的にはこんな導線です。

1-A)
自分の音楽と関連のありそうなライブイベントの
帰り際のお客さんに印象的なプロフィールと
メンバーの写真と無料で音源が手に入るサイトの
URLの入ったフライヤーを渡す

1-B)
mixiで自分の音楽と関連のありそうな
バンドのコミュニティに入っている人に
片っ端からこんな音楽やってます
よかったら聞いてくださいというメールを送る

2)
1曲ダウンロードのための
メルマガ登録を用意しておきメルマガ会員を増やす

3)
メルマガで近況やコラムライブレポートなど
とともにライブ告知を流す
その際ライブ限定の音源や、
イベントごとの無料CDRなどを用意して
ライブに来てもらいやすくする

そんな集客方法の介もありワンマンライブも成功し
徐々にライブハウス界隈では
名を轟かすほどに成長していきました。

しかしそれでも一向にバンドで飯を食える気配は
ありませんでした。
そして2006年についに25歳を迎えてしまいます。

はじめの計画通り何のためらいもなく
方向転換を考えました。

ちょうどその頃ソニーミュージックが
A&R職(アーティストをプロモーションする職業)の
公募があったので早速提案書を書いて
送ってみたところ、なんと応募数3000人の中から
2名に選出されてしまいました。

これでソニーで働くことができて万事OK
のはずが人生は面白いもので
なんとバンドの方にも吉報が届きます。

なんとMrChildren等を輩出したプロダクション
烏龍舎でレミオロメンを担当していたマネージャーが
たまたまライブを見てくれていて衝撃を受け
一緒にやりたいと声をかけてくれたのです。

ただし、ソニーの方はバンドを続けるなら
ここでは働けないと言われていました。
人生の究極の2択を迫られましたが
あっさりバンドに決めました。

仕事についてはそれまで勤めていた会社をやめ
時間に制約のないフリーランスとなり
1ヶ月で30曲を書き上げるなど精力的に活動しました。

インディーズでは有名な大阪のフェスに出演したり
個性的なレーベルとして有名なスピードスターの
オーディションで最終選考まで残ったり
スペースシャワーTVに出演したり
マネージャーによる大手レコードメーカーへの
プレゼンなどなど活動は一段階上になりましたが
フルスイングの空振り三振
結果はついてきませんでした。

ここまでやってダメなら悔いなし、
作曲、バンド活動で食う道はあきらめ
ライフワークとすることにしました。

とにかく常にバンド活動というものを中心に
考え突き詰めた22歳~26歳の4年間でした。

いろいろな要因があるとは思いますが
設定した目標に届かなかったのは事実です。

ただしここで得たものは大きかったと思っています。

特に見込み客の集客という
ビジネスの基本を実体験で学べたこと。

クリエイターとして自分のつくる物、表現することが
どんどんレベルアップして鋭角になっていき
それがお客さんにいい反応を与え広がっていく感覚。

そして、好きなものに100%集中するという
人生でも思い切りがなければ
なかなかできない経験が出来たことが
とてもプラスの経験だったように思います。

■フリーランス時代 バンド以外の道を模索

とはいえバンド活動をやりながらも
友達の紹介で勤務時間に自由がきいて
どんどん新規事業を任される会社の正社員として
働いていました。

デザインができてホームページが
ある程度つくれるということから

全く無名の高級カナダアイスワインのWEB SHOP店長

携帯でナビする沖縄の地元民しか知らない
お得な情報サイト「マチナビ沖縄」ディレクター

LEDディスプレイ用映像コンテンツ制作
および配信ディレクター

と制作を中心とした多種な案件を任されていました。

それからネットサーフィンをしていたときに
その後僕の人生に大きな影響を与えることになる
世界を旅する年収1億スーパーアフィリエイター
「川島和正」という人物を知りました。

まず初めにホームページを見たときは
怪しい人と商売だなという印象を受けました。
ただサイト自体はしっかりデザインされていて
他の情報商材のサイトとなにが違うのだろうと
デザインの視点から気になっていました。

2度目に出会うのが青山ブックセンターで
「働かないで年収5160万円稼ぐ方法」という
ふざけたタイトルの本を見つけ著者を見てみると
いつかネットで見た「川島和正」氏。

すぐに立ち読みを始めると
ぐんぐん引き込まれてしまいます。

実際にインターネットを使って稼ぐ方法を
ステップバイステップで素人にもわかりやすく
説明をしていて、知識を蓄える本というよりも
説明書に近いものでした。

これは今ちょうどフリーランスだし
役に立ちそうだということで
すぐに購入しメルマガにも登録しました。

本の中でも即金性の高そうな
PPCアフィリというものを実行したところ
2日くらいで2万円売り上げました。

ただPPCアフィリは資金が必要だし
本代の元がとれたからOKという気持ちもあり
その2万円でやめてしまいました。

ちょうどそれくらいの時期に
メルマガで川島氏がデザイナーを募集している
ということを知り即応募しました。

なんとすぐにメールが返ってきて
仕事を任されることになりました。

仕事を任されて1週間くらいで
CSSがあまりわかってないことがばれクビに。

ただそこで縁は切れずおもしろそうな奴という理由で
アルバイトスタッフとしてSEOやSEM、
コピーライティングなどの補助作業を
メインに任されるようになり
だんだん信頼関係を築き最終的には
破格の報酬で仕事を依頼されていました。

川島氏の仕事を請け負いながら前の会社で
つながりのあったワイン輸入会社のウェブ戦略を
2年ほど手伝いました。

川島氏の元で学んだノウハウを
小さい会社にあてはめながら
ワインのウェブ事業をはじめから立ち上げて
売上/顧客増大に貢献しました。

また、A&R職オーディションのつながりから
ソニーと委託契約し
「下北沢と秋葉原の文化を掛け合わせる」
という今までにない新しいコンセプトの
ライブイベントを企画する仕事なども
受けていました。

ということでこの時期は
朝から夜19時まで川島オフィス
19時~眠りにつくまでをソニー
たまにワインの日があるみたいな感じでした。
もちろん土日も稼動していました。

バンドをやめてからここまでのフェーズでは
とにかく仕事として引っかかるものは
時間の許す限りこなしていたという感じでした。
半年で同世代の平均年収以上は稼いでいました。

■WEBクリエイター修行時代 WEBを極める

ということでカオスな時期が1-2年続いたのですが
ぱたぱたとプロジェクトが終了していきました。

まだ契約を続けて欲しいというところもあったので
フリーランスを極めて生きることも考えたのですが
1本の道で1からプロフェッショナルを
目指したいとも考え始めていました。

いままでの経験を活かせ、且つ社会の需要があり
未来の明るい仕事はWEB業界だと確信していました。

すぐに転職活動を開始して
20社程受けて3社に合格しました。

1つはメーカーのWEBマーケッター
1つは紙メディアを持ってる会社のWEBデザイナー
1つはWEB制作会社のWEBディレクター。

けっこう悩みましたが
まずはWEB制作会社で創ること、
お客さんと対面して問題を解決する
という仕事をしたいという思いから
WEB制作会社でWEBディレクターの道を
極めることを選びました。

2010年夏
株式会社フォーデジットに就職
ここから4年間にわたり過酷なサラリーマン生活がはじまります。まず、はじめに驚いたのがフロアに20人くらいいる全員が終電24時ギリギリまで働くこと、そしてほとんどの人が晩御飯を食べていないこと。。お昼を14時〜15時くらいに食べたあと夜ご飯は食べないで終電まで働いて、家に1時くらいについてそこからご飯を食べるのです。。今考えても、入った時も驚きましたが1週間もするとそれが当然になりました。環境は恐ろしいですね。笑

もう1つショックなことが起こりました。就職して半年くらい経ったある日、その会社では半期に1回昇級の評価があるのですが、その日がやってきました。まあまあ仕事もこなせてたと自己評価していたのですが、まさかの年収ベースで50万円減俸でした。評価制度も知っていたし、減俸があることもはじめに説明されていたのですが、まさか29歳で減俸されるとは思いもよりませんでした。理由は期待されていた割にビジネスの基本、例えば名刺の渡し方、メールの丁寧さ、打ち合わせでの発言、仕事のスピードなどができていないということでした。

悔しくて悔しくてそこがターニングポイントになり、ものすごい勢いで成長して行くことになります。とにかく上司の評価が全てということで、上司の機嫌やどんな風に振る舞えば認めてもらえるかに焦点を絞って仕事をしました。ことあるごとに細かいミーティングをして、言われたこと以上の仕事を返すようにしました。しかし、それをやっていると、上司が帰るまで帰れなく、終電を逃し、朝4時までオフィスなんてことはざらになりました。しかし、上司に認められ仕事の量も増え、最終的には目標の月300万円の売上の3倍の900万円という数字を叩き出し、社内で1番の成績で社長からもなくてはならない存在として扱われました。ベンチャーらしく会社自体も成長し、気づいたら100名以上のスタッフ、3つの事業、大阪支社なども出来ていました。

僕もいいポジションを与えられ、スタッフ20名のリーダーとなり名刺にはクリエイティブディレクターの称号が与えられました。そんななかある事件が起きます。

いつも通りわがままなクライアントになんとか報いようと次々くる修正内容をこなしていたとき、終電間際に終電には間に合わないような依頼が舞い込んできました。こういうことは日常茶飯事なのですが、プログラマーのリーダーにこんな風に伝えました。

「この作業、もし終電に間に合わなそうだったらおれがやるけどどうかな?」

一見相手を思いやるような伝え方にみえますよね。
しかし、帰ってきた答えは予想に反して冷たかったのです。

「やれと言われればやるだけです。」

僕は閉口してしまいました。というより言葉をそのまま受け取ってやってもらいました。作業が終わった頃すでに終電はなく、プログラマーのリーダーMくん含めスタッフ3人が残っていました。終わった作業内容を確認していると体の大きなMくんがやってきてこう言いました。

「スタッフを終電前に返すのもディレクターの仕事だろ」

言い方がきつかったのもあり僕も応戦しました

「だから、帰りたかったら帰ればいいじゃん そう聞いただろ?」

これでMくんに火がついて怒って近くにあった椅子を蹴りながら

「なんだその言い方は!? おれたちをなんだと思ってんだよ!!」

僕には本当に理解が出来ませんでした。この人はなにを熱くなっているんだ。クライアントからきた依頼を一生懸命応えるのが仕事だろ。それでおれたちは給料もらってるんだから。終電がどうとかで切れるとか子供じゃないんだからしっかりしろよ。というような気持ちでした。

とにかくお客さんが待っているので、終わった作業を納品することを優先して僕はM君を無視してメール作成を開始しました。プログラマーチームは僕に不満をくすぶらせながらタクシーで帰りました。ちなみに僕はさらなる作業が待っていたのでその日も3時くらいまで仕事して家路に着きました。

次の日僕とMくんをまとめるリーダーに呼び出され、事の顛末を話し合うとようやく僕は理解できました。僕とM君では仕事に対する価値観ひいては人生における価値観が180度違ったのです。これは経営者になったときに読んだ「任せる力」という本に書いてあったことでさらに明確になるのですが、僕は理論で仕事に向き合っていたのに対しM君は人情で仕事に向き合っていたのでした。

その本によると人間は大きく3つのタイプに分かれる。それは「人柄重視タイプ」「結果重視タイプ」「直感重視タイプ」でそれぞれ苦手なタイプが存在すると。特に「人柄重視タイプ」と「結果重視タイプ」はぶつかりやすく、例えば「人柄重視タイプ」は部下や上司がより働きやすいように気を使ったりするのに対して、「結果重視タイプ」は数字がすべてなので売り上げを達成するためには何を解決したらいいのかなどを重視すると書いてあり、その通りだなと思いました。

その時の僕ははっきり言って仕事に人情持ってくるなどもってのほかだし売り上げがあるからこそ給料がもらえるという意識で働いていました。今でこそ経営をしているのでいろいろな人がいて、その指示の仕方によって人間は動き方を変えるということが分かっているので、このときの事件もよく理解できるのですがその時は全くわかりませんでした。しかし、逆にこの事件がきっかけで経営した時にスタッフに任せる方法がよくわかり、ビジネスを自動化して今自由に生きていることの役に立っている気がします。

場面場面では気づきや成長も多かったのですが、やはり全体を通してみてみるとブラック企業にかわりませんでした。何せ16時間労働して6時間しか眠ることができない、毎食コンビニ弁当、どれだけがんばっても年収400万円前後、おそらく10年がんばっても年収500万円ぐらい、20年後に600万円がいいところでしょう。気づいたら老人です。。

2012年に30歳が終わって31歳になるときに、本当にこのままでいいか本気で考えるきっかけがありました。当時付き合っていた最愛の彼女に振られてしまったことでした。毎週会っていて結婚も考えていたので、心にぽっかりと大きな穴があき、自分の人生の目的をもう一度考え直すことになりました。やはりここでもターニングポイントになるのは川島和正さんでした。

つらいサラリーマン生活を川島和正さんのメルマガだけは配信停止にしませんでした。僕の人生経験の中で忘れることができないものの1つに川島和正さんの商材である1000MANプログラムが1日に数百万円、月に1,000万円以上の売り上あげるのを目の前で見てしまったことがあります。インターネットビジネスの凄さを目の当たりにしたこの経験が僕の人生を大きく変えます。

2012年の冬に人生の目標や夢を見つめ直し、やはり今の年収のままでは納得がいかずすぐにぼくは副業を始めました。1日16時間労働で、しかもサボる暇もないほど忙しいそんな毎日の中、お昼の1時間そしてすべての仕事が終わった夜2時から、さらに自由に使える土日をフルに使ってインターネットを使った転売をはじめました。インターネットビジネスの基礎が分かっていたぼくは初月で5万円の利益を手にします。

そして2013年、ついに川島塾に入塾します。入塾費用の36万円を支払ったときの事は今でもよく覚えています。昼の仕事が忙しすぎて、なかなか入金に行けず12月の銀行が営業ギリギリの日に仕事をさぼって入金しました。海外の入金だったので窓口でしっかり届出を出さなければならず、現ナマを持って緊張したの覚えています。なにせそんな大金を支払うのは初めてだったので。

川島塾ではエントリーシートを提出しなければならないのですが、社長の右腕で年収430万円と書いたところ、「右腕のくせにそれくらいしかもらっていないなんて、ウエノマン、話を盛っているんじゃないのか?」と疑われました笑。ちなみにこれはセルフイメージが高いという話につながるのですがセルフイメージが高いというのは一般的には良いことと言われているのですが、セルフイメージが高い=自己評価が高いとも言えるわけで、自分の限界を超えることができないというデメリットもあるのです。逆にセルフイメージが低い人は自己評価が低いので現状を超えられるように頑張ることができるということです。

例えば学校のテストで言えばセルフイメージが高い人は簡単に90点は取れるんだけど100点はなかなか取れない、セルフイメージが低い人は最後の詰めまでしっかりやるので100点を取ることができるということです。僕はセルフイメージが高かったので最後の詰めが甘かったり、すぐに満足してしまうのでそれなりの結果しか出なかったのです。

そして2013年1月、ついに初川島塾京都セミナーこの後の人生を覆す衝撃的な出来事が起こります。川島さんは見慣れていたので特に驚くことはなかったのですが、いちばん衝撃的な出会いだったのがKくんという、僕より5つ年下の物販ビジネスをやっている男でした。

26歳の時に年収1000万超えが確定していた超有名大手総合商社を辞職して、転売をやりこんで3ヶ月後に月商300万円を達成するという話を聞いたときにぼくは焦りを隠せませんでした。さらにNくんという川島塾の同期がいて、当時彼もサラリーマンだったのですが、すでに転売副業で月収100万円を達成していて、川島塾内に仲間もいて差をつけられていました。

実は川島塾に入る前はお金もないしモテない男たちが集まってくる塾だと思っていました。しかし、半分以上の塾生は自分よりお金を持っているし、予想以上におしゃれでかっこよかったのです。さらに追い討ちをかけるように、年に6回のセミナーのうち半分が海外で開催されます。サラリーマンをやっていると海外に行くのもやっとなのに、塾の先輩たちは1週間以上も滞在し、毎食豪華な食事を楽しんでいました。環境が大事ということは言葉では知っていましたが、川島塾で身をもって体験できました。

さらに1月のセミナーで川島さんは「月収100万円以下は貧乏人」「会社は明日やめてください」など衝撃的で、しかし異論の余地がないはっきりとした態度でそういう言葉を言っていました。ぼくはその瞬間会社を辞めることを決意しましたが、副業で月収30万以上になったらと言い訳をしてなかなか行動に移せませんでした。

しかし川島塾で人生においての時間管理を学び、さらに「サラリーマンを辞めても日本で餓死することはできない、なぜなら生活保護で15万円以上の月収を手に入れることができるからです。」という一言を聞いた時にぼくは行動に移すことができました。そういうマインドに変化した僕は予定より半年早い2013年の夏にサラリーマンを辞めることになります。それまで安定して30万円あった月収が0円になることに恐怖はありましたが、その時の僕は希望に燃えていました。やるべきことをやるのみだと。

こうして時間を手に入れた僕は物販事業で自転車操業することよりも記事を量産することで自動収入が得られるアフィリエイトをビジネスで選ぶことにしました。まずはトレンドアフィリエイトと言って芸能系の記事をリライトしまくってブログに載せロングテールのSEOで上位表示させ、googleのクリックされると収入が得られる広告を載せることでキャッシュを得られるビジネスを始めました。

一ヶ月記事を書き続けて100万PVアクセスのあるブログを作ることができました。自動月収が20万円になり、さらに安定して大きく稼げるビジネスを探していたところアダルト系がもう儲かるということを聞いて、リサーチを始めます。その時ちょうどデリヘル起業塾がローンチされていて、川島さんにも相談したところ「向いてるんじゃない?」という返事をもらった次の日にノウハウを購入しました。これが2013年の冬でした。

川島さんからセルフイメージが高い=自己評価が高いということを聞いていたぼくは何か決定事項があるたびにこれでもかというくらいリサーチをして毎回決定しました。それは例えば自分のお店のホームページのデザインやコンセプトであったり、広告の出稿先であったり、ホームページに並ぶ女性の画像であったり。セルフイメージを低めてこれでもかと言うぐらい推敲を重ねた結果、デリヘルビジネスは3ヶ月で黒字化し、6ヶ月後には月収100万を達成しました。

そしてデリヘル塾で出会ったSさんをパートナーに加え、9ヶ月後には完全自動化に成功しました。ここではサラリーマン時代に衝突した事件がきっかけとなり「任せる力」という本をしっかりとインストールし、Sさんまたはその下で働く従業員などへの対応に気をつけているので完全自動化してから丸2年経ちますが、売り上げは下がるどころか上がり続ける一方で、Sさんとの揉め事など一切なく安心して他のことに時間が使え安定して自分の収入が入ってくるようになりました。

自動化に成功した僕はすぐに世界一周の夢を叶えるべく、2014年の10月から東南アジア6カ国周遊、2015年の1月からセブで英語留学を1ヶ月したのち、バリ、マイアミ、バハマ、カンクン、キューバ、メキシコシティ、ティファナ、カルフォルニア、バルセロナ、イビザ、パリなど世界の主要ビーチを中心に各地で恋愛もしながら旅をします。しかし、2015年6月頃にこれ以上旅しても自己成長に繋がらないと気づき目標を再設定します。

2015年7月、月収は何もしなくても150-200万を行き来していたので、収入は十分でしたのでまずは子供を生む相手を探すことに集中するために居をナンパのメッカである渋谷に定め、街、クラブ、パーティー、合コンに積極的に出向き1年で1万人以上に声をかけ100人以上と深い関係になることが出来ました。

この過程で凄腕ナンパ師たちと出会いはじめ3人だったライングループが120名になって、2016年5月にナンパ卒業式をするときにはかけがえのない仲間になっていったというストーリーもありますがこの話はまた別の機会に。そこに参加していた主要メンバーはみんな生涯を共にする相手を真剣に探している男たちでした。このグループでもビジネスで培ったギブ精神を発揮しグループ内でレジェンドと呼ばれるほどグループ内での信頼を集めました。

ちなみに世界を自由に旅し結婚相手を探すことだけに集中していた2015年度は月に1日だけ仕事して売上1億1500万円、最高月収300万円、年収2200万円、貯金1800万円になりました。

2016年…

2016年の目標は

1)デリヘル起業塾を成功させて年収+4000万円=6000万円
2)子供を授かる

で1)に関しては準備段階は終わっていますが「年収+4000万円」に関しては2017年に先送りになってしまいました。自分の思い通りにスケジュールが進まないのがJVの辛いところですね。

・出版した電子書籍をAmazon1位
・無料セミナーを開いて3名コンサルティング契約が取れた
・各SNSメディアの準備が整った
・プロモーターについて決定し2017年1月中に撮影完了2月販売予定のスケジュールがやっと立った

2)に関しては2月に出会った37歳の仙台キャバクラ嬢と11-12月の間に体外受精で子供を授かる予定。この女性はfacebook上で2015年度全国美女コンテスト総合優勝していて、facebook人気ユーザーランキングで1位安倍晋三、6位田村淳、11位ホリエモンと有名人に並んで19位にランクインしている。

そのほか小目標に設定しいる健康に関しては、レーシック完了、人間ドック完了、HIV検査中、糖質制限&ジム成功体脂肪率9%胸板も腹筋も成長、虫歯治療完了、整体・ストレッチ・カイロプラクティック・電気針治療などにいって身体を見てもらうことを達成。

ファッションはオーダースーツシャツ靴コーディネート一式50万円で揃えて川島塾のファッションコンテストで最優秀賞を獲得することができました。

思い出に残る行動として
160万円の婚約指輪を日本一綺麗な星空の村でプレゼント
ナンパ卒業式で1週間で9人の新規女性とセックス
川島塾で海外旅行三昧 ベトナム・ギリシャ・アムステルダム・イビサ・オーストラリア
新婚旅行 香港・シンガポール・タイピピ島・星のや温泉
現役AV男優と友達になった
里美ゆりあとセックスして彼氏の相談うけるくらい仲良くなった
自分の誕生日会 ナンパ師×経営者×渋谷の街の女たち×ロカホリ
井口さん、小野ちゃん、阿部ちゃん、岡芹くん、ひろひでくん、佐藤ゆうたくん、おじおじ、増山さん、高田さん、原田こうちゃん、翔くん、ありぽ、金川くん、松宮さん、二谷くん 業界の実力者たちと新たに友達になれた!

十分な自動収入を得られるようになったので、パートナー探しに集中できたここ2年くらいでした。ここ最近は「フォーカス」というキーワードが本当に重要で、夢のような生活を手にできた根幹だと思っています。他のことは本当にどうでもいいから「お金を稼ぐ」ことに集中するとお金を稼げるようになる。「パートナーを見つける」ことに集中すれば素敵なパートナーが見つかる。高校大学くらいに「クリエイティブ」という言葉に出会い衝撃を受け、自分の人生をこれに捧げようと思った価値観。でもお金や自由を得たいという人間の根源的な欲求については「フォーカス」していませんでした。それを人生を見直すことで「フォーカス」する順番を考え直し、その通りにしたら一気に結果を出すことができました。

生活するのに十分な自動収入と素敵なパートナーを手に入れたので次はやりたかったクリエイティブ事業を成功させるため、大きくキャッシュを稼いでいこうというフェーズになっています。2017年は起業当初のように熱く今の事業を拡大することに専念します。そして後半には子供も生まれ、家族を大切にして本当にやりたかった事業をスタートできるように組み立てていきたいと思います。

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